日本のロータリークラブの誕生(その3)
その人物と思想と背景
日本のロータリークラブの生みの親と云われる米山梅吉は渋沢栄一がパリの万博博覧会から帰国し、静岡に後の銀行の雛形ともいえる商法会所をつくった明治元年に産声をあげたのも奇き因縁です。
のち三井銀行の査役、三井信託銀行の社長、会長を勤め政府機関、学校経営、慈善事業に励むなど、その一生は正に渋沢栄一の感化を受けたと考えるに相応しい人物です。
「道徳と経営の一体化」という日本的な考え方を「超我の奉仕」「最も良く奉仕する者、最もよく報われる」とぴう標語を掲げるロータリークラブの日本への紹介もその意味から容易に理解出来ます。
米山梅吉は三井銀行の常務であった時、政府特派財政経営委員の一員として渡米、当時三井物産の綿花買付けの責任者として活躍していた ダラス ロータリークラブの会員でもある福島喜三次から、ロータリークラブの理念を聞いて自分と同じ考え方のクラブがアメリカのもあることに感銘を受けたに違いありません。
この福島喜三次は帰国後、大阪ロータリークラブ、神戸ロータリークラブを作ります。
米山梅吉の考え方、行動が渋沢栄一のそれと合致するということは次の事例を見ても明らかです。彼は昭和2年銀行行餘録の中で「新隠居論」に触れ「元老といわれる人は若い人に仕事を譲って、市町村学校等の公共事情の面倒を見てほしい」と書いていることは晩年の渋沢栄一の行動と合致するものです。
大正7年(1920年)日本に最初のロータリークラブ、東京ロータリークラブを設立した時のメンバー構成を見ると、渋沢栄一が明治元年1868年以降、日本を近代化する為に興した数々の企業と同じような企業の経営者、重役達の職業分類を見ることの出来るのも興味深いものです。
即ち、日本銀行、日本製麻、北海道炭鉱、日本郵船、日本製鉄、芝浦製作所、三井鉱産、清水組、興業銀行、三越等々。世界大戦が終わり、昭和の大恐慌を経験し、これからの
日本の建て直しに必要な企業の経営考達を集めたのでした。
アメリカのRI本部がこの職業分類とメンバー構成を見て米山梅吉の力量の大きさに驚いたことは想像に難しくないでしょう。
この後、米山梅吉は大正13年(1924年)名古屋ロータリークラブを大正14年
(1925年)京都ロータリークラブを設立、いよいよ日本ロータリークラブの発展期に入っていくことになります。
2008.2.3
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