真野 博記
第1回例会 鈴木桃太郎会長の点鐘
今になって思うと、日本国の歴代総理大臣の最初の閣議記者会見を全く同じ心境だったことに気がつきます。
夫は点鐘したあとに、自然と顔が動き、目は誰かに「これが良かったのですか?」と問いかける仕草を見せたことです。
2回目からは、もう何年も会長をやっているように営々と点鐘された様子は今の中島会長と全く同じでした。
幹事報告。さすがの清家さんも報告し終わってから確かめるような姿を見せたことは忘れられません。
現在の会長幹事も長年会員として先輩の仕事を見てきているのに、やはり初めは緊張するのでしょう。
設立当時の会長幹事。一人は防衛大学の実際の設立者、一人は建築学界の大御所としてのちの大阪万博のスイス館の設計をされたという二人の大物の第一回例会のこのような姿は瞼に焼きついています。
一方40名の会員は(41名の説もありますが、入会と同時に退会した人がいるので実際は40名)…。
5人のキーメンバーと5人の世話役のメンバーが受付の指導をして下さり、30人のメンバーは次回からどうするかを後に学ぶことになりました。
最も驚いたことは40名のチャーターメンバーのうち明治生まれの人が13名、大正生まれの人が24名、昭和生まれの人が筆者を含めて僅か3名であったことです。
第二次大戦後23年に亘って日本の繁栄を礎いてきた父親や大兄貴のような存在で、しかも学者、経済人、企業家等々の集まりの中に若僧が放り込まれたのですから、筆者にとってはロータリーとは親睦よりも大先輩から全ゆることを学ぶ修業の場であったのです。
第一回の例会の時の筆者は大学受験の時の試験官の前に立つ受験生の心境であったことを覚えています。
更につけ加えれば次の年の熱海大観荘での移動例会では会員は51名に増えており、正面には明治生まれ、両側には大正生まれの会員がズラッと並び、昭和生まれの会員は末席で走り遣いの心構えで座っていたものです。
それにしても諸先輩の芸達者に驚かされたものでした。そんな筆者も10年後には親睦委員長として10周年記念祝賀会をとり仕切り、先輩諸氏も朝の8時から準備に没頭するという、私のような若僧と一緒になって会を成功裡に導いてくれた奉仕のあり方に只只感激するばかりの体験をさせて頂きました。
それにしてもチャーターメンバー40名の職業を覚えることは、イニシエーションスピーチを聞いても断片的にしか解らず苦労しました。そのことがのちの "会員インタビュー" "ひと"の15周年記念誌の発刊につながってゆくのですが、その話は更めて。
会長の第一回目の挨拶は……ロータリークラブは自分の職業を通じて世の為人の為に尽す他とは違った奉仕団体であり、従って当クラブは、アチコチの施設、団体等に寄附をすることはせずケチクラブに徹します。
会員は夫々の職場の代表者でありエリートなので、会員を区別することなく平等に席につけるようにします。従って会長席、ヒナ壇のようなものは設けられません。
金のかからないクラブの一例として会長の住む目白駅での交通整理、駅の水呑場等、三日坊主に終わったり、故障しても直すことなくそのまま。途中で止めるような奉仕はクラブの評価を落とすだけなのでそのような処にムダな金は使わないようにします。
「このような基本的な考え方だからこそ、東京目黒ロータリークラブは健全なクラブとして発展した」と語り草になったものでした。
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