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第四章 国際ロータリー発祥の地、シカゴの成り立ち
そもそも、シカゴはミシガン湖畔に面した荒野でインディアンの土地でした。日本ではいよいよ幕末に入ろうという徳川家斉の時代1833年。20年後にはアメリカ東インド艦隊司令官ペリー提督が遺日使節として軍艦4隻を率いて浦賀港に入港した年のシカゴの人口は僅か350人、他説では家屋43軒と200人以下の人口と云われています。当時の江戸の人口は100万人と云われていたのに!!
1862年、21才以上の市民に160エーカー(約64万7,500平方米、約20万坪)の西部の土地を無料で与えるという入殖農地法が出来て、徒歩や幌馬車隊による西部への人口流入が始り、1890年には人口が110万人にもなります。この移民の引き金になったのは、1845年イギリスの隣アイルランドを襲ったジャガイモの大飢饉でした。
一説によれば100万人もの人が餓死したといわれていますが、その時に1840~1850年の10年間になんと170万人もの人が故国アイルランドを捨て、ヨーク港からアメリカに渡りました。その心境はまさに、カソリックを信仰するアイルランド人にとって、プロテスタントであるイギリス人であるアングロサクソン民族のつくったアメリカという、宗教上の敵地へやむにやまれず乗り込む心境であったろうと思われます。
というのは、アメリカの東部へ最初にやってきたのはアングロサクソンであり、カソリックの教えに強烈に抵抗したプロテスタントの人達によって開かれたので、熱心なカソリック教徒であるアイルランド人とは水と油の間柄でした。
いじめ、他処者扱い、人種差別を受けた彼等は西部の町シカゴへ移って、新しい町、自分達の王国を築き上げたのです。
団結心と町づくり、政治的手腕に長けたアイルランド人は東部プロテスタントの人達の共和党という政治基盤とは別に民主党の地盤をつくったのでした。
それが報われたのはアイルランド移民の孫で億万長者となりイギリス大使の座を射止めたケネディ家の長男、エドワードケネディがアメリカ合衆国の大統領に選ばれた時であったことは想像に堅くありません。
1962年、当時のソ連がアメリカの目と鼻の先のキューバに、原子爆弾搭載可能なミサイル基地を建設しようとしたのを、実力行使による第三次世界大戦の勃発をも辞さないというアイルランド系アメリカ人魂の固い決意の前に遂にソ連は基地建設を断念、撤収。
その危機を回避し、世界中から高い評価を得ました。
そのケネディ大統領も残念ながら、1963年11月テキサス州ダラスに於いて暗殺されてしまいました。
42名の歴代大統領のうち、41名はプロテスタントのアングロサクソン系(イギリス系)が占め、ケネディ大統領はたったの1人のカソリック教徒、アイルランド系だったのです。
彼の暗殺とは関係ないかもしれませんが???
ちなみに、アメリカでは外国駐在大使の地位に資産家がつく、悪い言葉で云えば金で買うのはあまりにも有名です。
1969年大統領に就任した第37代アメリカ大統領ニクソンの時代には16人の人達が金で大使の座を射止めたといわれています。
デンマーク大使は5万1000ドル、オーストラリア大使は4万3000ドル等々、外交・大使という地位、職業は金がかかるので、金にならないというアメリカの政治家ではとても勤まらない仕事なのです。
金を稼ぐには政治家をやめて回顧録を書いたり、企業の顧問・重役に就任、或は顧問弁護士、ロビイストになるより外に道はないからです。
政治といえば第8代リンカーンアメリカ大統領は1860年、此処シカゴで行われた共和党大会で指名争いに勝ち、大統領に選ばれています。リンカーンが21才の時、一家はシカゴのあるイリノイ州に移住。彼にとっては此処は第二の故郷であったのです。
シカゴの英雄としてシカゴ歴史協会にはリンカーン大統領に関する資料があり、又、シカゴ湖畔の美しい公園はリンカーン公園と名付けられ、ヨットハーバーや、探検博物館、超モダンな美術館など市民の憩いの場になっています。
このシカゴ発展の契機になったのは1861年から始った南北戦争でした。アメリカ北部23州2100万人、南部11州900万人(内黒人奴隷350万人)の人口のうち、北軍動員兵力200万人南部85万人で争われたこの戦も1862年に北軍の勝利で終るのですが、この時シカゴは北軍の兵站基地として、食糧、弾薬、銃、輸送、販売を引き受けて発展したのでした。
丁度日本が、1945年第二次世界大戦の荒廃の中から立ち直れたのが、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需景気によるものであったように・・・。
その時勝利した北軍の大統領がリンカーンで、奴隷解放が実現した結果、シカゴへの黒人労働者の流入を促し、一大工業国へと発展していったのです。
リンカーン公園、リンカーンの資料館など、民主党、共和党を超えて地元出身の英雄を称える理由がこれでよく理解できます。この黒人労働者の流入をきっかけに、黒人有権者の数も増え1983年にはこのシカゴに初の黒人市長が誕生し、この現象に勢を得て一部黒人団体の間で大統領候補者をかつぎ出そうという気運まで生まれたと1923年出版の(先物王国シカゴ日経新聞社)に書かれているのが、今日の民主党候補オバマ氏につながっているから、歴史って面白いのです。
処でカソリック教徒がつくった町シカゴに、同じカソリック教徒が世界中から集まってくるのは自然のなりゆきです。
カソリック教徒であるポーランド、イタリア、ユダヤ系ドイツの人達はここに安住の地を見出しました。
ポーランドからの移民の人達は自分達のシカゴに於ける足跡を後世に残す為、歴史、文化の展示場としてポーランド博物館をつくっているのを見ても、シカゴの宗教的特性を良く物語っています。
アメリカの作家ジェフリーアーチャーは、自称男爵というポーランドからの移民アベルロフノスキーがボストン(東部)の銀行家ケインとの確執のなかからやがてホテル王となり、死後娘が故国ポーランドにバロン(男爵)ホテルを建てて故郷へ錦を飾るというベストセラー「ケインとアベル」を執筆、ポーランド移民の実態を良く物語っています。
この本は映画化され上映、テレビでの放映などでよく知られています。処でアメリカ人の8割がキリスト教徒でその4割は毎週教会へ通うと云われています。
シカゴのカソリック教徒達は祖先の伝統と習慣を受け継いで、それ以上に教会へ行きます。
東部の多くのニューヨーカーが、毎週土曜日の夜飲みすぎて日曜日の朝は朦朧として教会へ通うのを忘れても、シカゴ人はそのようなことはないと云われているし、ニューヨークの人はパーティーで知り合いになり、友達になる前に「その男と付き合うことが利益になるかどうか」と値踏みをするのに対し、シカゴの人は気が合うかどうかで判断すると云われています。
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