東京目黒ロータリークラブの歩み
東京目黒ロータリークラブ
眞野 博
アメリカシカゴで親睦の会として発足したロータリークラブは、日本で三井銀行の役員であった米山梅吉氏により、大正9年に日本ロータリークラブが設立されました。
アメリカと違い、国内外に於いて著名な国家的指導者であることを基準に選ばれた創立会員を擁する東京ロータリークラブは、世界で高い評価を受けました。
即ち、日本銀行理事、日興証券社長、日本製鋼社長、正金銀行副頭取、富士紡社長、興業銀行副総裁、日本郵船副社長等々24名の顔触れがこれを物語っております。
この会員選考の仕方は、神戸ロータリークラブ、名古屋ロータリークラブ、京都ロータリークラブへと引き継がれました。
昭和2年の日本ロータリー連合懇親会では、会員選考を一層厳格にという決議もなされた程ですし、当時の考え方としては会員の数よりも質に重きを置くのでなければ、真の国際平和、国際理解を達成できないという考え方だったのです。
しかし、昭和8年になって、日本に14クラブしかないものを有力な都市に広げようという発想から拡大されていきますが、会員選考の基準は、あくまでも各県都市の指導的立場にある著名人であることに変わりありません。
さて、東京目黒ロータリークラブは、・・・・・
初代会長鈴木桃太郎氏は、今日の防衛大学の実質的創立者である副校長として、又化学者として、その創立に当たり全国より氏の薫陶を受けた化学者を集め、これからの日本の防衛を担う幹部は化学知識がなければならぬと必修科目とし、東京工業大学との出稽古なる交換受講の制度を設けて、今日の日本防衛の基礎をつくりました。
それだけにチャーターメンバーの人選にも厳しいものがあり、又、後には興信所による身元調査まで行われました。
建築家の清家清氏、ノーベル化学賞選考委員であり、日本化学辞典の編者志田正二博士、日本の工作機械の雄であり毎日経済人賞第1回受賞の牧野常造氏、いすゞ自動車の創始者楠木直道氏、日本のダム建設の生みの親鹿島建設副社長原明太郎氏、後の最高裁判事を育てた法曹の雄菅野勘助弁護士、放電の化学反応の研究で第1号の博士号を取得、放射線化学、原子力平和利用の第一人者近藤正春博士、環境工業の第一人者北川徹三博士、栄養学の権威で万有栄養社長岩垂荘二博士、監査法人代表の村田義男公認会計士、日本メルク万有会長松田幸雄氏、第二次世界大戦の映画を日本へ紹介したアメリカ・スタンフォード大学で宮沢喜一元総理と同級生の早稲田大学教授の徳江清太郎博士、等等・・・。
そしてこれらの創立メンバーは、やがて退会、逝去などにより失われ、現在は熊本芳夫氏と私眞野博の2名を残すのみとなってしまった。
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