ロータリークラブがシカゴに出来、最初の社会奉仕が公衆トイレの設置だった理由
この2つの疑問を解くには、当時のアメリカシカゴの置かれていた歴史的背景を知る必要があります。
16世紀、イギリスで起った産業革命は、それ迄「人の手」に頼っていた製品を機械で大量生産し、作られた製品に対する職人の業を放棄し、責任から逃れることを意味するものでした。1つ1つを手造りで造っていた時は、造られた製品に対し造り手が補修を含めて最後まで責任を持つことが要求され造り手もそれが「アタリマエ」のことと考えていました。
2100年前の旧約聖書にも「人はその手の働きにより正当な報酬を得る」と書かれていて職人の業を大切なものとして扱っています。
しかし、品物が機械によって大量に生産され、製造者の目の届かない処で売り捌かれるようになると大量の原料及び販路を手に入れる為の植民地政策をとるようになりました。
ポルトガルがインドのゴアを手に入れ胡椒で利益をあげたのをきっかけに、スペインは南米、イギリスはインド、中国、中東等をフランスは南アフリカ、アメリカはハワイやのちのフィリピンを、オランダはインドネシア、日本は朝鮮、中国等々を17世紀から20世紀にかけて夫々支配するようになります。
今日、それらのツケが植民地から大量移住となり、宗教問題もからんで社会問題となっているのは皮肉なめぐり合わせです。
この産業革命の波がアメリカにもやってきました。
アメリカ北部、シカゴ、デトロイト、フリーブランドの都市は気候と経済的理由から機械の生産を主とした工業都市として発展し、南部の豊かな土地と温暖な気候から綿花の生産を主な産業とした都市と対称的でした。
当時イギリスはアメリカに対し、自国で生産製造された機械を売っていたのですが、アメリカは自国で独自に大量生産の機械を製造するようになると、イギリスからの輸入を制限する為高い関税をかけるようになりました。しかし、南部は収穫した綿花をイギリスに綿布の材料として輸出する為、関税をなくすほうが得策な為自由貿易を旗印にしました。
この地理的、経済的基盤の違いの歴史が北部を地盤とする保守主義の共和党、南部を地盤とする進歩主義といわれる民主党につながっているのですから歴史って面白いのです。
処で南部の綿花は初め人の手で一つ一つ摘んでいました。
その人手はアフリカから連れてこられた黒人奴隷でした。処が1792年イーライ ホイットニーが綿花の自動摘取り機を発明すると、前年迄1年間で6万キログラムだった綿花の収穫量が1800年には1600万キロ、独立戦争の直前1860年には8240万キロにまでなりました。収穫量が増えると人手もいります。アフリカから買われてきた黒人奴隷の数も65万人から400万人まで増えました。
例を鉄砲にとると。今迄は1丁1丁手作りだったので製造数はたかが知れています。
1798年の対佛戦争に備えアメリカ陸軍は2万丁の銃の発注をしたのですが、誰も手が出ませんでした。イーライ ホイットニーは、注文を受けてから1年半かかって10丁の銃をつくりました。それを注文主の軍首脳の前でバラバラにし、再度組み立ててみせ2万丁の銃を2年で納品することに成功しました。
これなら故障した銃も、別の部品さえ用いればすぐに修理が出来るのです。
又、例を自動車にとると。1898年1台の自動車を造るのに12時間かかり生産台数も1700台だったものが、自動化され大量生産されると1902年には、年間17万台、1925年には、年間215万台も製造されるようになったのです。
大量生産とはこういうことでした。
*シカゴの発展
1776年アメリカは独立宣言をし、1861年南北戦争で北軍が勝利すると、1863年第16代大統領リンカーンは奴隷解放宣言をしました。
アメリカ北部工業地帯の生産は増々盛んになり、人手がいくらあっても足りず、その為自由の身になった黒人に綿花摘みの3倍の給料を拂った為、南部の黒人は大量に北部に流入しました。
その場所の中心地が、西のミネソタの鉄、東のバージニアの石炭、南のミズーリと東のオハオイの農産物の集荷地として栄えたシカゴでした。
統計によると1800年530万人だったシカゴ市の人口は1900年には8475万人に、工業生産は年120億ドルから1兆3200億ドルと100倍にも達し、世界一の工業国となったのです。
「偉大なる田舎」ミシガン湖から強く吹く風の町といわれたシカゴは、ギャングのアルカポネや鉄道王ブルマン出生の地として有名ですが、シカゴ市の東オハイオ州のクリーブランドで1870年石油会社を興した。
ロックフェラーは1890年に有名なシカゴ大学を設立し、又ニューヨークの名所ロックフェラーセンターをつくりました。
又、シカゴの東の鉄鋼業を巨大化したのがアーノルド カーネギーで、のちのUSスチールとなり数々の大学を設立。私達にはニューヨークのカーネギーホールとして有名です。
これ程急速に人口が増えると、インフラ即ち社会基盤の整備が追いつきません。
今はシカゴ市のシンボルとなっている公園の美しいミシガン湖は、市から流れ込む糞尿の匂いに溢れ風に乗って市の中心部へ流れ込む有様です。
つまり街のスラム街は糞尿がたれ流しの有様でした。
面白い話があります。フランスはパリ。街の下水道が未整備の18世紀、人々は窓から糞尿を捨て、小径の真中を通る溝を通ってセーヌ河に至り、匂や残飯で見られるものではありませんでした。
「我輩は国家である」と豪語しフランスの絶頂期を築いた、王ルイ14世(在位1661~1715)がパリ郊外に豪華なベルサイユ宮殿をつくったのも、このパリ市街の汚さと匂いから逃れる為だったという説があります。
その当時のパリの貴婦人達の服装であるハイヒールや日傘は窓から降ってくる汚物よけの為であったという記述があるし、1789年パリのバスチューム監獄に収容されていた有名なサド侯爵は、窓から外へ出してある小便用のジョーロを逆さに持ちデモ隊を煽動したのが1789年のフランス革命の発端だというのですから、当時の衛生状態の悪さが想像つこうというものです。
今でもパリの問屋街であるサンドニの小径は犬の大小便で臭く、そのホコリの立つ店先でレストランを営業し、生カキを販売し食べているのですから驚きです。
大都会のシカゴ、孤独なシカゴ、不衛生なシカゴ。ポールハリス等4人によってつくられた時代背景はこのようなものであったし、社会奉仕活動として最初にシカゴ市へ公衆トイレを寄贈したのも、このような歴史的背景があったからなのです。
その公衆便所をつくったきっかけは、4人のロータリークラブの創設者の1人、ガラス製造業のツウィード氏が知人の弁護士ドナルド カーター氏に入会を勧めたところ「単にメシを食う会なら入会はお断り、何か有意義なことをするならば大きな将来性をもっているので何かをするべきだ。それなら入会する。」というのがきっかけでした。
そこでシカゴロータリークラブ第三条に次の文章を加えました。
「シカゴ市の最善の利益を推進し、その市民としての誇りと忠誠心を普及せしめること。」
「誇りと忠誠心」今の日本から消えた言葉です。
ちなみに、第二次世界大戦で焼け野原になる前の東京郊外の立派な家のトイレは3畳程の畳敷きで、真中に便器がすえつけられていた汲取式で、糞尿は近郊農家の肥料にされました。筆者も友人の家のこのトイレで用を足したことがあります。畳表のとり替え料は普通の部屋のものより割高でした。
又、ご存知武田信玄のトイレは京間の六畳だったそうで、当時も筆者の使用したトイレにも音をたくのは常識でした。
江戸時代、長屋のトイレは大家が一括管理し、契約農家にその糞尿を肥料として売り、その収入が大きかったので、家賃を安くすることが出来たそうで、衛生面を云々する以前に、日本のほうが合理的でした。
近頃、北欧のある国では小便のみを、畑の肥料として用いているという新聞記事を読みましたが、これもリサイクルの一環でしょう。
小便には大腸菌のようなバイ菌はありませんし、尿を飲むというガン療法?があるという
"ゾーッ"とする話しもある位ですから。
戻る
|